山本 宜和
山本 宜和 (やまもと よしかず) |
もともと外科医の家庭に生まれ、自然に医者になることを志望していた。15歳の弟を白血病でなくしてから血液内科を志望していた。何とか医学部に入学して普通に学生生活を過ごしていた。将来は漠然と内科を志望していた。岡山大学での臨床実習に加え、京都大学血液内科や神経内科に実習にでかけた(京都大学での実習の時に救急の重要性・専門に偏らない研修の必要性を強調された)。それぞれの分野には魅力を感じられた(親は外科にすすむことを強要することはなかったが弟のことがあったので血液内科にすすむことは否定的であった)。岡山大学の内科の教室は第1~3・神経内科・循環器内科と複数に分かれており、臨床研修をしないうちから専門を決められないと思い、入局はせず市中病院で研修することにした。市中病院を選ぶ基準は、救急症例が豊富で血液内科・神経内科が両方とも研修できる病院であった。いくつか採用試験を受け、結局京都第一赤十字病院で研修することになった。1年目は2ヶ月ごとに内科各科(内分泌・循環器・血液・消化器・神経・呼吸器)を回ったが、結局お客様扱いで重症症例がきても見せてもらえず見学中心の研修であった。1年目の後半になり献血のバイトといった簡単な単純作業のバイトを義務付けられたりと研修内容に疑問を感じた。専門に関係なく重症症例をみることを希望し、内科志望であったが2年目はあえて病院をかえ前橋赤十字病院救急部で麻酔・救急・ICUでの全身管理を勉強した(前橋赤十字病院は民間病院では珍しく高度救命救急病院で熱傷ユニットを持っており全身熱傷に対応できた。またICUが10床(総ベッド数約550床)と充実していた)。重症患者をみることは苦労も多かったが、ICUでは毎日カンファレンスを開くなど勉強になることも多く充実していた。2年間の研修が終わった段階では、将来神経内科を専門したいと思いながらも今は内科をもっと広く研修したいと思い、3年目からは内科各科をローテーションできる東京都立府中病院のシニアレジデントになった(群馬大学の内科の先生たちは2年間の研修が終了後に専門研修に入るのが一般的であったが私は2年目の1年間を救急にあてたため3年目をローテーションにあてることにした)。東京都立府中病院でリウマチ・腎臓・呼吸器・消化器を3ヶ月ごとに研修した後、4年目から東京都立神経病院で神経内科の研修を始めた。ところが神経病院で研修をはじめた2日目に都立府中病院の上司から突然小笠原諸島父島の父島診療所に代診にいくようにいわれた。専門研修をはじめたばかりであり小児科や外科系の研修をしていないこともあり離島での診療などできないと断ったが、結局強制的にいかされる形で2週間小笠原諸島父島の父島診療所に代診にいくことになった(父島診療所は常勤医が2名いるが、そのうちの1名の代わりでいくことになった)。小笠原諸島父島は東京から1000km(フェリーで25時間30分かかる)も離れており、いく前の不安は尋常ではなかった(生きてかえってこれないのでないかとさえ思った)。実際いってみると生活に困ることはほとんどなくむしろ快適であった。診療所の先生は診療所にくる様々な患者を診ており、守備範囲の広さには驚いた。診療所の先生にサポートしてもらいながら無事に2週間を過ごすことができたが、この2週間の間に往診・検診など様々なことを行なった。この2週間の経験で、医療とは単に病気で病院にくる人をみるだけではないこと、専門医が診ないといけない訳ではない(ここの診療所の所長の先生は神経内科の専門医ではあるが小児科や外科の専門医ではない。この島にくるまで小児科や外科の研修を受けたこともなかったそうだ)ことを知った。しだいにこの診療所でおこなわれているような総合診療こそが本来の医療であり(一般の病院でいわれているような「専門外だからみない」という対応ではなく専門に関係なくあらゆる患者をみていく姿勢こそが本来求められているのでないか)、自分がやろうとしていた専門研修は特殊なことなのではないかと思うようになり、総合診療に対する憧れを持つようになった。
小笠原諸島父島から帰った後は、しばらく神経病院で研修していたが、胃ろう・気管切開目的で入院となった腎不全を合併したALS患者や顔面麻痺・四肢麻痺が主訴のGBS疑いの症例を主治医として受け持つことになった。胃ろう増設後に消化管出血を起こしショック状態になったり呼吸筋麻痺を起こし挿管後人工呼吸器管理になったりと大変な症例であったが、上司に相談しても意見がバラバラで決断に悩むこともあったりこの2人をICUに入れた時にでも上司が様子を見にICUに足を運ぶこともほとんどなかった。こういう患者に手がかかってしまい、電気生理・放射線といった基本的な研修もできなくなった。同僚にもこういう現状を相談していたが、同僚も同じようなことを経験しているそうでやる気をなくしていた。次第に病院をかえて神経内科をやるしかないと思うようになった。いろいろ探した中で長崎神経医療センターで神経内科と一般内科の研修が自由にできるとのことであった。九州に行くことに抵抗があったが、長崎神経医療センターの先生に心配はないといわれ悩んだあげくに長崎神経医療センターにいくことにした。九州にきた直後に福岡で神経免疫の研究会があり、神経内科の先生で地域医療をひろめようとしているという先生を紹介された。しばらく長崎神経医療センターで神経内科の研修を行なっていたが、しだいに総合診療をしたいという気持ちが強くなり、この先生を頼って今回このプログラムに参加することにした。今まで大きな病院でローテーション中心に研修してきたが各科の垣根の低い小さな病院で科にしばられない研修をして総合的な実力の底上げをしていきたいと考えている。理想をいえばgeneral phcisian(GP)の実力を保ちながら専門医としての実力も伸ばせればと思う。専門医をとるのが遅れるし、僻地にいくということで家族には心配をかけているが、ここで実力をつけ、次につなげればと思う。